特定の目的を持たない、特定の意味や意義を求めない、ということの繰り返しによって得られるものというのも、確かにある。
例えば、デイリーコーディングみたいなカルチャーで言えば、やっぱり日々プログラミングを続けること自体が、それ自体が目的と言ってしまえば、まあそうだし、それが目的なんだけれども、それ以外の目的を持たない。持たないことによって、それを続けるということ自体が目的なのである。
もしかしたらこの目的というものは、別の、大きな言葉に言い換えたほうがいいかもしれないし、例えば仮にだが、メタ目的と言ってみよう。メタな目的としての継続というものがあるときに、それを邪魔するものを排除するという意味で、例えば毎日すごい作品を作ろうであるとか、何かすごく意味があるものを作ろうであるとか、何かすごく難しいことをしようであるとか、どんどんハードルを上げていくと、それ自体が、より大きな目的である継続ということに寄与しないので、それをやめてみようということだね。
しかし、その継続、または継続を目的とするということの、そういう習慣化の毒、良くないところみたいなものも、割と感じ始めていて。例えば、わからない。まあそうは言っても、やらないよりはマシなのかもしれないけれども、この文章を書いているのも、もともとはいろいろな目的があって、いろいろな目論みがあって、その中でやっているけれども、一番大きなところはやっぱり、文章を書くということを継続してみるということ。そのメタな目的が求めていたものなんだと思う。
だからそのためにいろんなものを切り捨てて、その目的を達成するために、そのメタな目的を達成するために邪魔になりそうなものを排除したわけだ。それは例えば、毎日意味や意義のある、とても素晴らしい文章を書こうであるとか、誤字脱字をなくそうであるとか、きちんと遂行しようであるとか、読んだ人にすごいと思ってもらおうとか、そういういろんなね、平たく言えば、より良い文章を書こうということを一日一日の単位では求めていないわけで。
求めずに、その結果続けることはできているんだけれども、しかし何かこう、停滞のようなものを感じるときはあって。それはもちろん、なんだろうな、気づいてみれば、おそらく何かをしないよりはしたほうがマシ。やる前よりは良かったなと思っているかもしれない。だけれども、そういったものはなかなか見えづらいし、何かの区切りであるとか、何かの成果の可視化であるとか、そういったものがやっぱりあったほうが良い。
そしてそういうものは自然に生まれるとも限らない。ラッキーであれば自然に生まれるというか、何か自然に生まれることがあればそれはとても幸せなことで。しかし多くの場合はそんなことは起きないので、自分でそれを起こさなくてはいけない、自分でそれをやらなくてはいけない、ということになるのかなと思う。
例えば、そうだな。自分は、私は、有名な小説家とかでなくても、知り合いのね、知り合いのレベルでも、この人は自分がかなわない素敵な文章を書く人だなと、素晴らしい文章、もしくは面白い文章、興味深い文章、ウィットに富んだ知的な文章を書く人だなと思うこともある。思うこともあるという結びはおかしいな。まあ、そう思う相手はいるわけで。
では、自分は今それをできているのかというと、そもそもそれを目的としていないから、そこに、そうなっているかというと、まあそうなっていないという感じはするし。何かを目的とするということ、この場合は継続を目的としているわけなんだけれども、そもそも継続を目的としていて、良い文章を書くということを目的としていないから、良い文章が書けていないという当たり前の話ではある。
だけれども、当たり前だとわかっていながら、もしかしたら継続することによって、たまたま偶然、知らないうちに文章が上達しているのだということを、そういう幸運を願っていつつやっているということと、目的を持つということは、目的に達成しない、目的に到達しない、目的を達成しない場合があるということの裏返しであって、そういったものにどう向き合っていくのかということなのかなと思う。
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