ダジャレは、ちょっと今、定義を検索していないので、あくまで個人的な認識として言うけれども、シャレの一種である。そして、そのダジャレの「ダ」は、駄菓子の「ダ」みたいなもので、ちょっとくだらないとか、なんかそういう意味に捉えている。本当は違ったりするんだろうが、なんとなくのイメージとしては多分合っているだろう。だから、ちょっとくだらない。そもそも、ちょっとくだらないっていうか、ちょっとダメというか、ちょっと安っぽいというか、わからないけど、まあ、なんかそういうことだ。
なんだけど、しかし、ダジャレとそうじゃないシャレの違いは、実は僕はよくわかっていなくて、ダジャレは、いわゆる日本だとオヤジギャグというふうに言われたりもするけれども、どっちにしてもちょっとダメなイメージがつきまとっているわけだね。
しかし、ダジャレは結構面白いし、大事だと思っていて。実際のところ、言葉遊びの一種として、全く関係ない言葉を、言葉の響きによってつなげる、接続するということは、それがダジャレかどうかは置いておいて、ラップのようなものもそうだし、韻を踏むということもそうだし、もしくは例えばプロダクトだとか、何かの商品名だとか会社名だとかね、そういった何か素敵な名前というものでも、言葉の響きが近いものを引用したりするということは、実際のところあるだろう。
それが良いものになるのか。良いというか、そもそもダジャレは別に良くないとは思っていないけれども、それが悪いものになるのか。いや、そうじゃない、悪いという言い方も良くないんだけれども、とにかく、そのダジャレ的なものになるのか、優れている、ダジャレではないとされているものになるのかどうか。その基準は何なんだろうかというと、まあ、そんな基準は別にないわけで。
ただ、ここで思うのは、本来は全く関係のないもの、意味的には本来は関係がないものというのを、たまたま、たまたまといっても歴史的必然性があったりする場合もあるだろうが、とにかく意味的には関係がないもの、遠くの位置にあるものを、音の響きの近さによって接続するということだ。
それは例えば、辞書をパラパラとランダムにめくって、そこから単語を引っ張り出すということであったりとか、ダーツを投げて、それが刺さった都市のことを調べたり、行ってみたりするみたいな、ある種のランダム性、セレンディピティというかね、出会いというかね。ランダムよりは、音は近いという意味でランダムではないし、それがある種の偶然なんだけれども、例えば日本語で音が近いのであれば、その日本語で音が近いということ自体に、ある種の何か奇跡みたいなものを感じるわけだ。
例えば、自分がこの人すごいなと思うときに、その中の一つとして、教養が深いし、すごく頭がいいなと思う人の一種として、何かの物事を語るときに、一見全く関係ない遠いところにあるものをうまく引用して引っ張ってきて、それを接続して、それによって他人に新しい視野の広がりとか、世界の広がりみたいなものを感じさせる、そういった人をついつい尊敬してしまう。それは何かを知っているということがもちろん前提であり、そしてそれに対しての解像度の高さ、さらに言えば、そこに接続することができるというある種のひらめきであって、そのひらめきを、ただのひらめき、一瞬の光の輝きで終わらせるのではなくて、それを接続して、つなげて人に説明することができる。そういったものは本当にすごいなと思うわけだ。
しかし、それと同様に、このダジャレというものが始まりになっていたとしても、それによって新しい何かにつながる。先ほどの教養の話の場合は、もともと意味的なつながり、説明可能な意味的なつながりがあるというか、割とロジカルなところはあるんだろうけれども、それとはちょっと違う。
ダジャレから入っていたとしても、それが歴史的偶然によって、日本語でたまたま音が近くなった、もしくは英語と日本語、違う言語によってたまたま音が近くなった二つの全く関係ない単語みたいなものがたまたまそこにある、たまたま音ということにおいては近しい座標にあるというだけだったとしても、それによって、一瞬でもそれについて考えるということが生まれるのであれば、そこで結構新しい気づきというか、発見というか、新しいロジックに思わぬところでつながることがある。
それはつまり、ダジャレから始まったり、思いついたりしていたけれども、よく考えてみると、これは結構面白いつながりとして語ることができるな、みたいな瞬間があったりして。そういった意味で、ダジャレの「ダ」というのは、駄菓子が素敵なものであるように、ダジャレもまた素敵なものだと思っている。
No posts

Comments
Nothing yet. Say the first thing.
Sign in to join the conversation.