とにかく作ること、作れるということ。作るということに対して、考えることはいろいろある。
ただ、生まれて死んでいくだけの生命という存在において、作るということは唯一、そのただ死んでいくだけの人生を有意義なことにしてくれると思っている。まあ、その最たるものは子供を作ることだろうし、個人にとっては、その個体にとっては、子供を作ることだろう。だけど、もちろんそれだけではなくて、道具を作ることであるとか、何か後々に残る情報を作ることであるとか、まあ、人間においてはいろんなものがあるだろう。
生物においては、少なくとも私が知っている限りは、そのように文化を残す、何か子供以外を残すということはあんまり、まあ、そうだね、文化が生まれているものもあるとは思うけれども、まあ、ここに踏み入ると時間はあっという間になくなるので、それは置いておいて。
まあ、とにかく作るというものは素晴らしい。
だけど、ふと思うのは、それを盲信していないのか、ということ。
最近、特にAIについて思うんだけれども、とにかく作ることは簡単になった。非常に簡単になった。まあ、何でも簡単になったわけじゃない。いまだに難しいものはある。だけど、ある分野のものづくりは非常に簡単になった。
で、みんないろいろ作っているけれども、果たしてそれはやるべきことなんだろうかと思ったりする。果たしてそれは作るべきものなんだろうかと思ったりする。
それはどういうことか。つまり、作れるから作っている。けれども、それが作るべきものだとは限らないし、やれるからやってるけど、それがやるべきことだとは限らない。
やるべきかどうか、作るべきかどうか、ということを考える前に、まず作ってみようよ、という精神の奔放さということももちろんわかっている。むしろ自分としては、そういう方が好きだ。
だけど、特に今この局面において、AIという、何か願望を叶えてくれる何かを手に入れたときに、少し酔っぱらってしまっていないのかと思う。
それによって、AIでどうでもいいものを10個作る間に、10個は作れないけれども、たった一つ、その10個より、その人が時間をかけて作るべき有意義なもの、意義あるもの、価値あるもの、本当に価値あるもの、そういったものを作ることが、もしかしたら失われているのではないか。
要は、その道具を手に入れると、それで、道具で解決できることをしたくなる。解決するっていうのは非常に気持ちいいことだからね。それがましてや、言葉でちょっと指示するだけで何かが解決できるのであれば、それはどんどんそれで解決したくなる。気持ちよさを感じたくなる。
それはだから、何かを作っているように見えて、実は快楽に溺れているだけなんではないかと思うことがある。
そうだな、まあ最近だとね、ドーパミン中毒とかね、あの、例えばSNSの、どんどん出てくるショート動画を見てしまうのが良くないとされているけれども、ふとしたときに、AIによるものづくりというのは、それは本当に必要なものか、本当にやるべきことなのか、ということを時々振り返らないと、同じようなことになっているのではないかなと思うことがある。
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