みなさん、こんにちは!
最近感じたことをシェア、分かち合いたいと思い、おたよりをお贈りいたします💌🕊️
だから安心して絶望しよう。
思いきり何かに期待して、傷ついて、
そうやってトライアンドエラーの繰り返しに安心していこう。
絶望のないところに、希望が生まれない。
私たちは絶望を知っているから希望を認識することが出来る。
「わざわざ / こんなことのために」×「コスト(時間 / お金 / 労力)」をかけてみる。
それを日常生活のなかで仕掛けてみる。
これって、自分の世界の創造材料になっている概念 / 思い込み / 当たり前ルールに、
意図的にバグやエラーを引き起こすんですね。自分の世界のルールのパズルが組み変わる。
さて、いまあなたが出来そうな人生の意図的なバグ、エラーアクションはなんでしょう?
日常が単調に感じたり、はたまた悩みでいっぱいですという方。
おめでとうございます!いまあなたが、暇で平和である立派な証拠!(嫌味とかではなく本当にそう)
気が向いたらこのメールを見たその日に、日常という無意識領域の聖域で仕掛けてみると良いと思います。何が(What)はそんなに重要じゃない。
「こんなことのために時間かけんの!?お金払うの!?」
そう感じることほど、バグやエラーが起こり得ます。有効な手段として使いましょう。
例えば、(通常お金をもらってするような)草刈りをしに、飛行機に乗って遠方まで行き、なんなら参加料を支払ってしてみる、とか。
普段は何のこだわりもなく使えたら良いと思って買っていたフライパン(いまなら大体数千円かな?)に、1万円以上の投資をしてみるとか。
それは枠、フタのようなものが外れるような感覚かもしれないし、
オセロがひっくり返るような感覚かもしれないし、何も感じないかもしれない。
目に見える損得の先の体験を取りに行くこと、人生に意図的なバグやエラーを引き起こすことは、自分のいのちの想像以上の可能性にbet(投資)し続けることになるでしょう。
私だったら、味噌づくりをしに飛行機移動して日帰りで淡路島に行ったり、
(空港の荷査で「これはなんですか?」「味噌です」「味噌??」のやり取りした)
1着のワンピースに当時の自分がびっくりするような金額を支払ってみたり。
まだまだ色んな体験のレパートリーを拡げることができるだろうし、それは別にお金があってもなくても出来るようなこともたくさんあると思う。
”ふつうは”●●だよね、と自分にとってあまりに当たり前すぎることに対して、意図的にバグやエラーを仕込むのがとてもオススメです。
次第に期待なくそういうことを仕掛ける / しでかすようになったら、あなたの世界では「想定外」「想像以上」の事象が起こっているでしょう。
実際に試してみたらぜひ、このメールに返信とかで教えてほしい!私も知りたい。
あらゆる全てに前兆がある。
いまこの瞬間に100のメッセージ、サイン、シンクロニシティ(共時性)がある。
自然がまさにそうで、いま目の前で生きている植物はいつかの雨、
いつかの動物の死骸、想像をはるかに超えたネットワーク樹形図で成り立っている。
それが当たり前。太陽が毎日巡ってくるのを当たり前だと感じるように。
だからいま、私たちの世界はすでにめちゃくちゃシンクロニシティで成立している。
それがそもそも前提なのだ。
なにより私たちが肉体を持ってこの世に生まれ、今生きている。
その事実が幾億ものシンクロニシティの重なりによる奇跡であること。
その事実を認識、観測、目撃することで、その現象は再現性を発揮する。
繰り返し現れ「ほらやっぱりね」と答え合わせになっていく。
それが観測、目撃すると拡大する / 拡張すると言われる所以だと思う。
そして私たちは何に対してシンクロするのかもまた、自分で選ぶことが出来る。
私ならば自分にとって心地よいぼーっとした瞑想状態のリズム、ペースにシンクロし続けていたいと思うし、
未知なる体験を面白がったり、あらゆる遊びを生み出して今世を軽やかに自由にゆうえいする仲間や環境にシンクロしていたい。
関わりにくい、めんどくさいと感じるあの人も、理不尽だと感じるあの人も、全部私が私のために配役している。
そう思うと被害者意識から降りざるを得なくなる感じがある。続けられなくなるというか。なんだ、全部自分がそう思ってたのか、配役してたのか。そう視点が転換したときに、なんだかほっとすることがある。
そんで、関わりにくいとか理不尽とかは、その相手そのものをあらわしてるものではなく、あの人の一面と私の解釈視点という複数の変数の掛け算によって現れる。まあ虚像ではある。
私のなかに関わりにくさ、めんどくささ、理不尽さがあって、そこにライトが当たっている🔦
で、どうする?どうしたい?どうありたい?がハイライトポイント。
逆説的に、被害者意識をやめたくなければ、
不都合だと感じる現象、他者は今日も今後も登場する。
被害者意識のためには加害者(さらには救済者)が必要だから。
また被害者意識を続けること自体に、誰からの何の評価も本来はないのだから、やりたいだけやらせてあげたらいい。やりたいだけやらせてほしい私自身が、いま存在する私のどこかにいるのだから。
さて、自分のなかのどんな私 / いつの私が、
どんなことをされたと信じていて、
そして、どんな感情を抱えたまま置き去りにされてるのでしょう?
その感情がパンドラの箱。
あらゆる物事全てに終わりがあることが最初から決まっていることの知覚が深まるほどに、時間というものの不可逆性と価値が増す。
お金は取り返せても時間は取り返せないという言葉も、言葉としては理解出来るが知覚がしづらい(ピンとこない)シリーズのひとつのように思う。
いまこの瞬間、苦痛でたまらないし一刻も早く止めたい / 辞めたいことだって、必ず二度と出来なくなる日がくる。いつのまにかそうなっていく。
だったら苦痛やストレスすらも、いましか体験出来ないんだわという視点で、思う存分その不快感を体験してしまえばいいのだ。
人も、ものも、いつかは朽ちる。私の手を離れる。
その時に、それらそれぞれとの、それまでのあらゆる体験に感謝する終わりのときであるよう縁起設計していたい。
最近、実家の田植えを「田植えフェス」と自分のなかで称して、ジョインしました。
つい最近まで「農業なんかやるかボケー」と思っていたし、農業 = つらいという認識のなかに生きていた。厳密には親が農業をしていて、いつも「疲れた」「しんどい」と言っているのを聞いて、私はそう解釈したのでしょうね。
じゃあ果たしてつらいというのはダメなのか?という視点で問うてみると、きっとそんなことはなかったのでしょう。
父や母は疲れた、しんどいと言いながら、そこに生きている感覚が充実感もあったように思います。それも憶測だけれど、私は自分が体験してみてそう思う。
そしていまこの年齢、タイミングの私は、やりたくもやりたくもない農業に結果的に触れている。携わっている。
それは家族の体力、身体状態から、彼らが自力のみで続けていくことが難しくなってきたからというきっかけがあって、そうなった。
やりたくもやりたくもないが、自分のなかで「農業やってもいいよ」と去年か今年くらいに決めていたもので、気付けば今年の田植えのほとんどは私が田植え機でマントラを唱えながら田植えをした。
いまでも親に対して、●んでほしいと思う瞬間はあるし、心底腹が立つことはある。
関わることや会話をすることが面倒で諦めるときもある。
そういうときもあるけれど、そうじゃないときも確かにあって、
そうじゃないときにもたくさん目が向くようになってきた気がする。
腹が立ったり、●んでほしいと思うことも、やがて必ず終わることを知っている。
やりたくもやりたくないもない農業を通じて、父や母とともに何かをすることも必ず終わる。二度とできないときがくる。
いつかのタイミングは二度と訪れず、そのときはやりたいと思っても出来ない。時間とは不可逆であることを痛感する。
だからやりたいもやりたくないもないまま、心底腹が立って●んでほしいと思ったままでも良いので、何の大義も意味も目的がなくてもそれも良いので、ただ不可逆なこの時間と体験をしていようと思った田植えでした。
新米の予約は8月より開始予定!ご縁ある方は、楽しみにしててください。
稲刈りのときも多分私はフリースタイルマントラを唱えながら稲刈りをするのだと思います。
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