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週刊#バス釣り狂時代の歩き方 · Aug 2, 2026

誤釣錯誤#021 「体力」という名の攻略法

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Toshiaki Mikawa | ENDSVILLE · 週刊#バス釣り狂時代の歩き方

夏は、魚より先に人間がバテる。

考えることも、ルアーを替えることも、

集中し続けることも、

結局は体力次第なのだと実感してしまう

水温は32℃を超えていた。炎天下の湖上。一時的に吹く風も気休めにしかならない。夏の定番エリアといえば水通し。そして水深のある縦の変化。

こうしたエリアは、いくつも思いつく場所ではない。夏冬が比較的イージーに思えるのは、条件が限定的になって迷うことが少なくなるからだろう。

しかし、このエリア選定の見極め易さに対峙して難しくなるのがアプローチだ。そこにいるハズ。しかし喰わない。この状況は、ことのほか厄介だ。

スイッチの入った状態であれば比較的、どんなルアーでも良いのかもしれない。しかしスイッチの入る状況は夕方で風が吹いたとき、など限定的だ。あとの多くの時間はニュートラルな状態の個体を相手にしなければならない。

そのために必要なのがルアーチェンジだ。シルエット、波動、スピードを変え、答えを探していく。だが、そのたびにしゃがみ、ルアーを結び替え、立ち上がる。この何気ない動作が、炎天下では驚くほど体力を奪う。

炎天下で水分補給をしているとはいえ、しゃがんで立っての繰り返しは、その都度「よいしょ」と声が出てしまう。疲労感をひしひしと感じ、目の前に行かなかっただけかも、変えなくても良いかも、という考えがよぎる。

ルアーを変えるか変えないか。この葛藤が起きている時点で負けだ。集中力が勝負を分けるというが、集中力を持続させるためには体力が必要だ。心・技・体というが、実際は、体・心・技という順番が正解なのだろう。

体力があればする必要のない自分との闘いの末、その疲れは翌日まで及ぶ。減量と体力づくり。そう言い続けて早半年が過ぎていることを改めて噛みしめる。明日からまた始めよう。そう思ったのは何回目だろうか。

―誤釣錯誤、続く。

炎天下でも、曇天でも、風が吹いていても、つい人はルアーを投げ続けてしまう。キャストという行為は、釣りの中で最も“動きがある”ため、やっている感が強い。だがその感覚こそが罠だ。

無思考にロッドを振るうとき、アングラーは水中で起きている変化を一切拾えていない。

つまり、状況判断の放棄である。

キャストは、あくまで“情報を取りに行くための行為”であって、目的ではない。しかし、釣れない時間が続くと、キャストそのものが目的化する。

  • どの角度から入れるべきか

  • どのレンジを通すべきか

  • どの速度で見せるべきか

  • そもそも今ここに魚はいるのか

これらの問いが消えた瞬間、釣りはただの反復運動になる。その状態を無思考キャスト と呼ぶ。

キャストを繰り返すほど、ラインの角度・ルアーの重さ・着水音などの“水中からの返答”が本来は蓄積されていく。だが無思考キャストでは、その返答を受け取る器がない。

水中の変化は、目に見えない。だからこそ、キャストの一投一投が「観察」であるべきなのに、無思考キャストはその観察をゼロにする。

結果、水中の変化を読む“思考の釣り”が消える。

  • 情報の欠落 — 何が起きているか分からないまま時間だけが過ぎる

  • 判断の停止 — 変化に合わせた修正ができない

  • 釣れない理由の固定化 — 同じ失敗を永遠に繰り返す

無思考キャストは、釣れない日を“釣れないまま終わらせる”最大の要因だ。

無思考キャストから抜け出すには、投げる前に必ず“目的”を言語化することだ。

  • この角度で入れる理由は何か

  • このレンジを通す根拠は何か

  • この速度で見せる意味は何か

  • この場所に魚がいると考える根拠は何か

一投ごとに仮説を持つことで、キャストは“情報収集の行為”へと戻る。その瞬間、釣りは再び思考を取り戻す。

無思考キャストとは、ただ投げ続けることで釣りを作業化し、状況判断を捨ててしまう行為だ。

キャストは本来、水中の変化を読み取るための“問い”である。問いを持たないキャストは、釣りではない。ただの運動なのだ。

バスロッド「エンズヴィル」を語るとき、必ずと言っていいほど誤解される点がある。

――“強いロッド=力でねじ伏せるロッド”ではない、ということだ。

エンズヴィルは強い。だが、その強さは「剛力」ではなく「弾性」に宿る。

魚が抵抗する力を、ロッドがそのまま受け止めるのではなく、しなりの弾性で吸収し、反発力として返す。結果として、アングラーが力を込めなくても、魚自身の力で浮いてくる。

この構造は、力で押し返すのではなく、相手の力を利用して制する合気道の原理に近い。

合気道では、相手が押してくれば受け流し、引いてくれば導く。力をぶつけ合うのではなく、力の方向を読み、そのまま活かす。

エンズヴィルのロッドも同じだ。魚が走れば、その力をロッドが受け流し、魚が止まれば、その反動でロッドが魚を浮かせる。

アングラーは「力を出す」のではなく、「力の流れを読む」だけでいい。つまり、エンズヴィルの強さとは、“力を使わずに、力を活かす”という高度な強さだ。

この釣り方は、アングラーの身体感覚を変える。無理に曲げようとせず、ロッドの弾性に任せる。無理に寄せようとせず、魚の動きに合わせる。その瞬間、ロッドと魚とアングラーの三者がひとつの流れになる。

力でねじ伏せる釣りは、どこかで破綻する。だが、力を活かす釣りは、自然の流れに沿う。だからこそ、無理がない。そして、ロッドの性能が最大限に発揮される。

エンズヴィルは、ただ強いロッドではない。“合気のロッド”としての哲学に通じたもの持った道具だ。魚と対話し、力の流れを読み、自然のままに浮かせていく。その在り方こそが、エンズヴィルの真価のひとつである。

エンズヴィルを詳しくみる

-釣れない時間が、なぜアングラーにとってかけがえのない財産になるのか。あえて語らない“空白の時間”に光を当てる沈黙の釣果-

水辺に立つと、まず耳が世界を探し始める。風のさざめき、鳥の声、遠くの車の音。だが、竿を構え、水面を覗き込むと、そこにはまったく別の世界が広がっている。

音が存在しない世界。 いや、正確には、私たちが“聞くことのできない音”だけが支配する世界だ。

魚がいない日ほど、その世界は静かだ。沈黙は、ただの空白ではなく、水圧という物理現象が語り始めるための舞台になる。

水中には、常にわずかな圧力の変化がある。魚が泳げば、その体積が水を押し、微細な波が生まれる。しかし、魚がいない日は、その変化がほとんどない。

水はただ、重力と風と温度だけで形を保ち続ける。その“変化のなさ”が、釣り人には奇妙な存在感として伝わってくる。

竿先に触れる微震が消え、ラインはただ垂直に落ち、水面は鏡のように沈黙を映す。この沈黙は、自然が何も語らないのではなく、語るべき情報が極端に少ない状態なのだ。

その無音圧の中で、ふと気づくことがある。釣りとは、魚の反応を待つ行為ではなく、水の状態を読み取る行為そのものなのだと。

魚がいない日ほど、水圧の均衡が保たれた世界は、どこか完成された静けさを持つ。その静けさは、文学的ですらある。言葉を持たない物理現象が、沈黙という形で物語を紡いでいる。

水圧は、目に見えない。耳にも聞こえない。触れることもできない。だが、釣り人はそれを“感じる”。

感じるという行為は、科学ではなく、感性の領域だ。沈黙は、釣り人の感性を研ぎ澄まし、物理現象を文学へと変換する。

魚がいない日ほど、私は水中の無音圧に耳を澄ませる。そこには、釣果とは別の、世界の深さが静かに横たわっている。

「バテたのは、バスじゃない。」

釣りは、自然に対する最も静かな礼儀。

 ― 争わず、ただ寄り添う行為。

Read the original on endsville.substack.com

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